公益社団法人 全国私立保育園連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

「あたりまえの生活」がどれだけ大切なものなのか

2014.06.11

東日本大震災・福島第一原発事故後2年10か月
◆「あたりまえの生活」がどれだけ大切なものなのか◆

近藤啓一●福島県南相馬市・北町保育所副所長

【保育通信No.705/2014年1月号】

2013年の夏は各地で自然災害が発生し、多くの災害で被害を受けた方には心からお見舞い申し上げます。
震災から2年半経過した南相馬市では平穏な夏でした。いつも通りの保育を実施し、子どもたちは元気に園庭を走り回っています。このような日常の中、私自身「被災地」と呼ばれることに若干の戸惑いを感じています。
しかし、少し目を転じると、園庭には放射線量計測のモニタリングポストが無表情に鎮座。お休みしている保育室では給食食材の放射線量を毎日計測。廊下には、支援でいただいた飲料水の在庫。保育所の外に目を移せば、子どもたちの消えた公園、夜8時には人通りの絶える市街地、耕作を禁止されて雑草が支配する広大な田んぼ、それとともに姿を消してしまったトンボやカエル…。
とても不自然な世界が広がります。これを被災地と呼ぶのだと自身を納得させます。
東京電力福島第一原子力発電所の事故以来、市内の状況は時が止まったがごとく良くも悪くもなっていません。
事故直後は、慌ただしい避難生活や不安になっている周囲にいる大人の影響でやや落ち着きのない子どもたちでした。保育所に寄せる保護者さんたちのニーズは「あたりまえの生活を送らせてほしい」でした。私たち保育所スタッフも安心して遊び、食べ、くつろげるあたりまえの生活を実現できるよう努めてきました。
お陰様で、現在は園庭の放射線量も毎時0.15μSv未満となり、屋外活動も思う存分楽しめるようになっています。子どもたちはのびのびと生活しています。

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福島県南相馬市の子どもたちの今

2014.05.29

東日本大震災・福島第一原発事故後2年9か月
◆福島県南相馬市の子どもたちの今◆

遠藤美保子●福島県南相馬市原町聖愛保育園園長

【保育通信No.704/2013年12月号】

「これは放射性物質がついていないから、触ってもいいの?」と、5歳児が顔を上げて、傍にいた先生に確認しながらそっと手をのばし、鳥の羽根を拾い上げました。
地面に落ちているのを見つけて、「きれい」といいながら見ていたので、担任が「持って帰ってもいいよ」と声をかけたのです。
今夏、年長児が招かれて、2泊3日のお泊り会を軽井沢で行った時のことでした。
野外での遊びが震災後はまったくできていなかったので、軽井沢ではきっと子どもたちは解放されて、元気に遊びまわるだろうと期待をして出かけました。
しかし、実際に行ってみると、森の中の道を歩いても、まわりの葉っぱや木の実、虫などには目もくれず、前の人について歩くだけ、川に入っても、遊べずにすぐに上かってしまうなど、震災前に見ていた、嬉々として遊ぶ子どもの姿とは違っていました。2年間の空白の時間の重さを感じました。

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まどか保育園の現在まで【6】東日本大震災~あの日・あの時

2014.05.15

東日本大震災・福島第一原発事故後2年8か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【6】
東日本大震災~あの日・あの時

【保育通信No.703/2013年11月号】

◆「まだ終わっていない」ということを 知ってほしい
 地震発生時、私は本園舎にいました。地震の揺れの時、もも組付近にいたので行ってみると、午睡後のようで、保育者のまわりに園児が集まっていました。
 揺れが激しくなってきたので、アップル組に行ってみると、子どもたちは保育者のまわりに集まり避難をしていました。まだまだ激しい揺れの中、私は新園舎のほうへ行ってみました。新園舎までのわずかな道も揺れていて、やっとの思いで辿り着くと、さくらんぼ組、いちご組の部屋も、午睡後の子どもたちがとても不安そうに保育者のまわりに寄り添い、揺れがおさまるのを待っているのが目に入りました。
 この時、すでに部屋の中もグチャグチャで、ベビーベッドはロックしているはずなのに激しく揺れ、避難準備のため開けてある窓も大きく左右に揺れて、物が落ちる音が次々に聞こえてきました。私はただごとではないと感じたので、大きな揺れの中、あるだけのおんぶ紐を保育士にわたし、揺れが落ち着いたら、すぐ避難できるように声をかけました。
 柗本先生も来てくださり、やっと落ち着いてきた時を待って直ちに避難しました。毎月避難訓練もしていたこともあり、避難はスムーズに進みました。しかし、想定外の地震の大きさだったので、保育士も不安でいっぱいでした。無事に避難の報告も済みましたが、園舎の中、園庭、戸外が一瞬で変わり果てた様子を見ると、冷静に考えなくてはならないのに、不安でいっぱいでした。
 1回目の大きな揺れがおさまっても、次々に余震が起きて、そのたびに曲がってしまった電柱の電線がバチバチと火の粉を上げたり、地割れしている地面、また雪もちらついてきて、子どもたちをはじめ、みんなのいっそう不安になってきた顔が忘れられません。
 テレビで、津波の避難指示も出されたことも知り、北小学校へ避難することになりました。何人かの保護者のお迎えがありましたが、まだ大半の子どもたちは残っており、みんなで道路もグチャグチャになっているところを通りながら、避難先の小学校へ向かいました。電話もケータイもつながらないという状況だったので、園長先生が園に残り、保護者の方に伝達してくださいました。
 余震もあったので、ほとんど何も持たないまま、保育士と子どもたちは北小学校へ行きました。すべてが想定外のことで、避難訓練で訓練してきたことまでは想定できる範囲内でも、そこから先は未知の世界でした。まだ5か月の子どももいて、物資が来るまでミルクやおむつの手配ができなかったので、一度園に取りに戻ったりと、準備不足に後々反省させられました。
 子どもたちは、園長先生の伝達もあり、名簿を正確にチェックしながら、夜7〜8時頃には全員無事、保護者のもとに帰ることができ、それが一番安心しました。
 やはり、避難グッズをすぐ持って避難することなど、今だからたくさんの反省があります。でも、本当に想定外というか予想もつかないような長く強い揺れだったので、いかに冷静に動けるかということが重要なのだと思いました。
 また、今回の原発事故は、本当に映画のような出来事で、それが一瞬で私たちの生活を奪ってしまったという事実は、今も私たちにたくさんの不安を与えています。

 私は、震災前は双葉郡広野町に住んでいました。今の広野町は、避難指示も解除になり、戻っている住民もいますが、まだまだという状況で、原発で働く人が多く住み、働いている人で賑わってはいます。
 しかし私個人としては、4歳と2歳の子どもがいるので、まだ放射能や原子力発電所への距離、幼稚園の機能の不安など、まだまだ抱える不安も多く、いわき市へ避難しています。子どもをもつ母親として甲状腺癌への不安、子どもたちの将来の不安、今現在の不安といつも闘っています。半月に1回の健康検査では採血があり、内部被爆の検査結果が出るまでの不安や、戸外はどのくらい大丈夫なのかなど、いつも不安と隣どうしの生活を送っています。
 メディアを見ては、いろいろな意見があり、また考えてしまったり、将来への見通しも立たず、幸い親族が近くにいますが、同級生の同じくらいの子どもをもつ友人たちは県外へ避難している人も多く、また一人で不安になったりする毎日です。
 3月11日から、何も持たずに避難し、埼玉県、愛知県、そしていわき市に落ち着き、気持ちも前へ向こうとしても、たくさんの不安と悩みから、抜け出せなくなっています。それでも子どもたちは成長し、日々は流れていっています。たぶん、子どもをもつ母親でなくても、そういう避難をしている方たちは、いろんな悩みや不安を抱えて生活していると思います。
 確かに、何も起こらなくても、そういう悩みや不安は日々の中で何かしらあったと思います。でも私たちは、常に今、将来、そして故郷への思い、たくさんの不安と思いを抱えています。2年半が経過して、だんたんと事の重大さも薄れていっているように感じます。でも、「まだ終わっていない」ということを、自分自身もそうですが、まだまだみんなに知っていただきたいと思います。

(堀江裕美/保育士)

◆とにかく健康でいなければ
 2011年3月11日、この日から人生が大きく変わってしまいました。
 度々地震が起きていたので、近いうちに大きな地震が起こるのではないかと思っていましたが、これほどの大震災になるとは思っていませんでした。まして、自分たちが原発事故により被災避難することになるなどとは、夢にも思っていませんでした。
 最初は、なかなか現実を受けとめることができず、夢であってほしいと何度思ったことかわかりません。
 突然、日常が壊され、家族もバラバラになり、愛犬もあるだけのエサを出して置いてきてしまいました。
 普通の暮らしがどれほど大切なものだったか、今回の震災で痛感しました。震災当時は、一日も早く一時帰宅したいと願っていましたが、2回、3回と戻るうちに、この間までここで生活していたんだと思うと、一時帰宅で帰るたびに切ない気持ちになり、荒れていく風景を見ながら、涙をこらえて戻ってきています。
 あちらこちらで、家を建てたとか中古物件を見つけたとか、それぞれ前に進んでいますが、わが家はこの先どう動いていいのかわからず、決めかねています。
 先が見えないもどかしさ、宙ぶらりんでいる状態が辛く感じる時もありますが、震災から2年半が過ぎようとしている最近になって、やっと少しずつでも前に進まなくてはという気持ちになってきました。
 まだまだ不安なことが多い現実ですが、いろいろな方からの支援に、感謝する気持ちを忘れず、前を向いていかなくてはと思います。
 浜通りとは気候の違いを実感していますが、とにかく健康でいなければと思っています。保育園の再建が一日も早くできることを、願っています。

(折原明美/保育士)

◆不安と、さまざまな気持ちでいっぱい
 震災当日、私はいちご組にいて、子どもたちの午睡も終わり、起こしていると、ケータイが「ブー、ブー」と鳴り始めました。「地震だ!」と思ったところ揺れ始め、だんだん大きくなりました。
 避難訓練の時のように窓を開けましたが、窓も左右へ揺れ、物は落ち、とても恐怖でいっぱいでした。
 子どもたちと布団の上に集まり、起き上がることもできず、頭を低くし、ただただ地震が落ち着くのを待っていました。一度おさまったところで子どもたちを抱き、外へ避難しました。外の外灯も、左右に大きく揺れていました。外に出ると、駐車場も地割れしていて、恐ろしくてたまりませんでした。
 小学校への移動中、まわりを見ると、まわりの景色が変わり果てていました。
 次の日、双葉町から川俣町への移動となり、道もどこが通れるのかわからず、この先どうなるのか、原発はどうなるのか、不安でいっぱいでした。小学校でバスを待っていると、警察の車がたくさん前を通り、ガスマスクをした人がいて、取り残された気持ちでした。
 今の私の気持ちとしては、子どもたち全員、無事に帰すことができてよかったと思います。地震が起こるたびに、ドキドキして不安でいっぱいになります。そして、地元に帰れない淋しさなど、さまざまな気持ちです。

(磯部康子/保育士)

◆いつか家族で故郷に戻り、みんなで誕生会を
 私の誕生日は、3月11日です。
 あの日は、もう少しで勤務も終わり家に帰るのを楽しみにしていました。わが家では、誕生日にはささやかなお祝いをして、後日、日時を決めて外で食事会をするようにしていました。
 息子、娘、姪は、夕方の時間指定で私にプレゼントを送ってくれたらしいのですが、地震で私のところには届きませんでした。きっと、宅配便の車の中にあったのでしょう。
 震災と原子力災害で、家族は離れ離れになってしまいました。昨年の誕生日は何もできず、電話で孫たちと話をするだけでした。
 今年も、家族の誕生日に集まることはできないと思いますが、2か月に一度など、都合をつけて集まれるように私が計画を立てています。
 3月11日は、生涯忘れることのできない日になりました。子どもや孫たちは、震災・原子力災害を思い出すたびに、私の誕生日を思い出すことでしょう。
 私は、いつか家族で故郷に戻り、みんなで誕生会を催したいと願うばかりです。

(吉田教子/保育士)

まどか保育園の現在まで【5】東日本大震災~あの日・あの時

2014.04.30

東日本大震災・福島第一原発事故後2年7か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【5】
東日本大震災~あの日・あの時

【保育通信No.702/2013年10月号】

◆心はあの日から止まったまま
昨年娘を出産しました。親馬鹿ではありますが、可愛さがましてきた今日この頃です。長女もあれから2年が過ぎ、今年で4歳になります。日々すくすくと成長する2人の娘の笑顔を見ては安らぎ、親であることを実感しています。
3月11日の震災当日は、満了式を前に思い出づくりを始めたところでした。今まで引越しなどで途中退園し、お別れした友だちに絵を描いて、思い出としてプレゼントをしていたこともあり、クラス全員が一人ひとりの絵を描いてプレゼントしようと始めていた時でした。
おやつの時間も近づき、今日は片づけて続きはまた後でと声掛けをした直後に地震が起こりました。過去に経験したことのない揺れ、何かが違うと感じ、直ちに園児たちを机下に避難させ、トイレへ行こうと保育室から出た数名の子どもの安全確認を行い、子どもたちを机下に避難させましたが揺れは激しくなり、棚上に重ねておいた1年間の子どもたちの絵画作品が崩れ落ち、棚が傾き、子どもたちに危険のないように激しく揺れる棚を押えながら早く揺れがおさまってと願い、子どもたちと早く安全な場所に避難しなければと考えるだけで精いっぱいでした。北小学校へ避難する時も道路の陥没や落下物に注意しながら子どもたちを安全に誘導し、無事、保護者に戻さなければという気持ちでいっぱいでした。
今振り返ってみると、あのような状況下で子どもたちが誰一人として怪我をすることなく保護者に戻すことができたのは奇跡ではないかと感じています。わが子も幼いながら何かを感じていたのか、抱っこをやめるとすぐ起きて泣きの繰り返しで、娘を抱っこしながら主人、父とすごしていました。
その後、原発事故が起こり、すぐに私の実家である原町へ一旦は避難したものの、娘を守りたい一心で、安全だといわれる場所を探して避難を続けました。
原発事故がなければ、現在も地元で娘たちと一緒に生活をしていたことでしょう。祖父母にも娘の成長をまじかで見せることができたのに、あの日常の生活すべてが奪われ、いかに自分が無力であるか、悲しさ、悔しさを抱えながら時間ばかりが過ぎています。震災当日から別の場所で別の生活を続けていますが、私の心はあの日から止まったままです。今、私たち家族は埼玉県戸田市に居住していますが、まどか保育園のカリキュラムを思うと素晴らしい内容であったことを実感しています。
震災以前の暮らしに戻すことはできませんが、少しでも安全と思える場所での生活を選択しなければならないのが現実です。まどか保育園のパイン組だった子どもたちもあっという間に小学校3年生です。皆さんが避難先でご苦労をされながらも元気で生活されることを切に願うばかりです。子どもたちの笑顔を守りながら。

(酒井有佳里/保育士)

◆また保育の仕事に携わりたい
地震が起きた時、メロン組の子どもたちは午睡が終わり着替えをしている時間でした。私は布団を片づけている途中で大きな揺れを感じ、急いで部屋に戻ると子どもたちは皆、自主的に机下に隠れていました。日頃の避難訓練がいざという時にいかせたという思いでした。
その後、北小学校に避難する時、メロン組は3分の1くらいの子どもがまだ残っており一緒に避難しましたが、小学校へ遊びに行ったと勘違いした子もいて、ふざけないようにするのに必死でした。保護者のお迎えが遅かった子どもたちは、その当時の記憶がはっきりしないというような話も聞きました。
地震がなければ当たり前のように働き、地元の大勢の方と接することができていたのに、避難先では知り合いも少なく、身内とのかかわりばかりになってしまい、寂しい気持ちです。また、今まで保育をしてきた子どもたちの近況等も聞くことができなくなったのも寂しく思います。私は今、子育てに専念していますが、育児が落ち着いたらまた保育の仕事に携わりたいと思っています。

(猪狩 香/保育士)

◆埼玉県での避難生活を始めることに
地震が起きた時、私は乳児棟で0歳児の午睡後の対応を他の保育士と行っていました。突然轟音と大きな揺れが起こり、身体が倒れそうになったことを覚えています。とっさに窓を開け、寝ている子どもたちのところへ戻った直後、1歳の女児が泣きながら開いている窓から飛びだそうとしており、すぐに駆け寄り飛び出さないようにしてから他の保育士と一緒に再び寝ている子どもたちのところに戻り、子どもの上に両手を広げて覆いかぶさるような姿勢で地震がおさまるのを待っていました。しかし揺れは更に激しくなり、寝ている子どもたちの近くにあったベビーベッドがぶつかり合いながらギシギシと音を立て、今にも目の前に迫ってくるような勢いでした。
両手を広げ被さっている身体は左右に大きく揺れ、ベビーベッドの様子を見ながらもどうすることもできない無力さに、家具等が「子どもたちのところに来ないで」と必死に祈りながら、自分の身の安全を確保することで精いっぱいだったように記憶しています。
しばらくすると大きな揺れも徐々におさまり、幸いにも子どもたちに怪我はなく、揺れがおさまりました。と同時に窓から子どもたちを散歩車に移し、玄関前の広場に避難し、保護者のお迎えを待っていました。当日は午後から寒さが厳しく雪もやみぞれが降り始めたこともあり、子どもたちの衣類を取りに園に戻ると、園舎内の冷蔵庫は前後に動いてその上にあった電子レンジはコード1本で吊られているように落下寸前の状況でした。
やがて警察、消防団の方が来られ、心強く感じたことを覚えています。その後、近くの小学校へ避難するように指示があり、すべての保育士が園児を誘導し避難しました。私は他の保育士と一緒に散歩車に園児を乗せ、小学校に向かいました。小学校に通じる道路は避難する車ですごい渋滞だったと記憶しています。避難をしている最中、私の脳裏にふと思い浮かんだのは原発のことでした。近隣の方からの噂として、原発はマグニチュード6.5以上の揺れには耐えられないのではないかと聞かされていました。近くの歩道は陥没箇所が多数あり、その都度散歩車を止めて状況確認を行いながらの避難でした。
当日は深夜になっても大勢の方が校庭に出ており、その中には乳幼児や小中学生もいました。教室内では身体を横にできる場所も少なく、体育座りをされている方がほとんどでした。午後10時過ぎ、誰かが「換気扇がついているから切ったほうがいい」ということで、すぐに切られたのを思い出しましたが、なぜそういわれるのか、その時はまったくもってわかりませんでした。しかし、じつはその時、すでに原発の原子炉がメルトダウンを起こしていたことを後で知りました。
その後、私は埼玉県での避難生活を始めることになってしまいました。今、私は自宅から車で30分かかる群馬県の保育園に勤務しています。辛い気持ちを抱えながらの生活ではありますが、そのような中でも僅かな希望をもちながら、日々の生活を大切にすごしています。
まどか保育園では大変お世話になりました。そして皆様に出会えたことに心より感謝申し上げます。第2のまどか保育園設立を心よりお祈り申し上げます。そして皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。またいつの日かお目にかかれることができたなら幸せに思います。本当にありがとうございました。私も頑張ります。

(半谷孝子/保育士)

放射能被害を受けて園はどう対処したか…茨城県守谷市

2014.04.15

Reportage No.9ルポ*東日本大震災・被災地の保育園その6
放射能被害を受けて園はどう対処したか
…茨城県守谷市・まつやま保育園

【保育通信No.702/2013年10月号】

 あの東日本大震災とその後に起こった福島第一原発事故の放射能被害に見舞われてから今回の取材時(平成25年5月16日)に至るまで、2年2か月ほどが経っていますが、茨城県守谷市という比較的都心に近い通勤圏内(つくばエクスプレスで40分程)の保育園でも被害が発生しています。
 そこで今回は、子どもたち、保護者、保育園の皆がこの未体験の状況にどう対応していったのか、報告いたします。

まつやま保育園の園舎

■それまでのまつやま保育園

 つくばエクスプレスの守谷駅で関東鉄道常総線に乗り換え、南守谷駅を降りて、元々ここに住んでいるらしい雰囲気のお宅と畑や新興住宅地とが、モザイクのように混在し、樹木があちこちに茂り始めている道路を数分歩いて行くと、平屋の建物と外観が円錐形の屋根を直角に切り出したような形の建物が見えてきました。まつやま保育園に到着です。
 玄関から入ると、職員室からは、広々としたウッドデッキと、月曜から金曜日まで園庭開放で遊びが盛り上がりそうなすべり台のある大きな築山、どろんこ遊びが思いっきり楽しめそうな園庭が見え、園児と同じランチ(予約必要)が食べられるログハウス風の小ぶりの建物が見渡せます。
 園の特徴として、土と水と太陽にたわむれ、自然の恵みを体全体で味わうことを第一に挙げるほど、園児たちもどろんこ遊びや裸足保育が自然になじんでいる保育園です。

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まどか保育園の現在まで【4】東日本大震災~あの日・あの時

2014.03.27

東日本大震災・福島第一原発事故後2年6か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【4】
東日本大震災~あの日・あの時

馬場英美●まどか保育園保育士

【保育通信No.701/2012年9月号】

◆3月11日に思うこと
 震災当日の午前中、保育園でお誕生会が開催され、三好寿司さんのマジックショーや、翌日行われるNHK歌ののど自慢予選会に出場予定だった保育士の壮行会を行っていました。園児たちと一緒に、とても楽しい時をすごしていたのを覚えています。
 そしてあの日の午後2時46分、私は保育園の事務室で携帯電話から緊急地震速報が鳴り響いた瞬間に、過去に経験したことのない非常に大きく激しい揺れに見舞われたことを、今でも鮮明に記憶しています。
 園児たちは、午睡後のおやつの準備の時間でしたが、もも組の担任が休暇のため、私は心配で急いでもも組へ向かい、他の保育士と一緒に園児たちを部屋の真ん中に集め、長い揺れがおさまるのを待ちました。そして最初の大きな揺れがおさまった後、他の保育士たちと園児の無事を確認し合い、園庭の真ん中に園児たちを避難させました。
 その間、乳児棟では他の保育士が中心となり、乳児棟前の駐車場へ避難していました。その後の余震もすごく、園庭にも大きな地割れができて、保育園に隣接している寺の本堂からはぎしぎしという音が鳴り響いていました。
 すぐに、園長と副園長の指示で全員駐車場へ避難しました。私も棚が倒れ、物が散乱していた事務室から園児の緊急連絡簿だけを持ち出しました。外で待っている間はとても寒く、余震も続き、園児たちは不安感と恐怖感が入り乱れているのではないかと感じていました。
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まどか保育園の現在まで【3】東日本大震災~あの日・あの時

2014.03.11

東日本大震災・福島第一原発事故後2年5か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【3】
東日本大震災~あの日・あの時

神野幸子●まどか保育園保育士

【保育通信No.700/2013年8月号】 

 2011年3月11日は、お昼頃まで冬晴れの好天でした。当時私が担任をしていた「さくらんぼ組」の子どもたちは、午睡から次々と目を覚まし、午後2時半頃までにほとんどの子どもが起きていました。そのため、いつもより少し早めにオムツ交換を始め、2人目のお尻拭きを手元に寄せようとした瞬間、後に東日本大震災と呼ばれる巨大地震が発生しました。

 揺れの最中、慌ててオムツを伏せて、泣きながら這って来た子どもを左右の手で抱きかかえ、自分の上体を床で横になっている子どもの上に伏せ、地震がおさまるのを待ちました。別の保育士のところへ集まった子、布団の上でぼんやりしていた子、サークル内で不安そうな子たちの顔を見ましたが、揺れが強く長いため、両手が使えない状況に戸惑ってしまいました。

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まどか保育園の現在まで【2】まどか保育園の一番長いあの日から…

2014.02.20

東日本大震災・福島第一原発事故後2年4か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【2】
まどか保育園の一番長いあの日から…その2

柗本洋子●まどか保育園副園長

【保育通信No.699/2013年7月号】

 2011年の4月に入り、避難した子どもたちも小学校への入学時期を迎えました。複雑な胸中ではありましたが、新年度を迎えるにあたり前向きな気持ちを取り戻そうとしていた矢先、4月8日に福島県を中心とした大きな余震が発生し、震災当日の恐怖をまた思い起こすことがありました。
 この日、私は、埼玉県加須市立騎西小学校の入学式に出席させていただきました。入学式会場である体育館の中には大勢の報道陣がいたことに驚きましたが、それ以上に驚いたのは、新入生の他に、2年生以上の子どもたちの中にも「まどか保育園」を卒園した子どもが大勢いたことです。双葉町の子どもたちは全部で約90名いたように記憶しています。
 報道によると、放射能汚染による風評被害の影響で双葉町の子どもがいじめにあっているという話も聞き、私も微力ではありますが、子どもたちが仲良く楽しい学校生活をすごせるようにと大勢の方に頭を下げさせていただきました。
 入学式当日は、子どもたちをはじめ保護者の方も素敵な洋服に身を包んでいる姿を拝見できて、このような状況下にあるにもかかわらず立派な入学式を挙行いただけるとは夢にも思っていませんでした。この入学式は、私の一生の思い出に残る出来事の一つになったことはいうまでもありません。
 入学式が終了し、その足で双葉町役場がある場所へ出かけました。当日、天皇皇后両陛下が震災見舞いのためにおいでくださり、皇后陛下からお声を掛けていただきましたことも一生の思い出になりました。

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まどか保育園の現在まで【1】まどか保育園の一番長いあの日から…

2014.02.03

東日本大震災・福島第一原発事故後2年3か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【1】
まどか保育園の一番長いあの日から…その1
 
柗本洋子●まどか保育園副園長 

【保育通信No.698/2013年6月号】

 2011年3月11日、大震災当日の午前中までは、あたたかな春の訪れを感じる日であったと記憶しています。
 保育園に隣接している正福寺の境内には、3月の誕生日を迎えた園児たちの誕生日会を催すため、園児たちの声が響きわたっていました。そして、お別れ会も兼ね、園児たちも子どもながらに寂しさと華やいだ心でいたと思えます。
 楽しいお誕生日会、マジックショー、職員が翌日出場予定であったNHKのど自慢大会出場のためのリハーサル、おいしい給食がふるまわれ、とても幸せな一時であり、今振り返ると最高の思い出でした。
 3月11日午後2時46分、得体の知れない地響きとともに大地が揺れ始め、徐々に大きな揺れに変わり、保育園の中は園児の叫び声や職員が指示する声、さまざまな声が入り乱れ、家具が倒れ、一瞬にして混乱の渦に変わりました。皆、この揺れが早くおさまってほしいと願い続けたことでしょう。

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今、福島県の保育は…その3◆福島県伊達市

2014.01.17

東日本大震災・福島第一原発事故後1年11か月
今、福島県の保育は…その3
◆福島県伊達市・霊山三育保育園の現状◆

【保育通信No.694/2013年2月号】

 東日本大震災が起きてから二度目の新年を迎えました。しかし、未だに32万人を超える方々が避難生活を送られています。
 震災後は全国の保育関係者の皆様方から心あたたまるお言葉や物資、そして、救援金等を頂戴しまして、心より厚く御礼申し上げます。お陰様で元気と勇気が湧き、保育士とともに子どもたちの成長を支えて参ることができました。また、一人ではないということを実感し、人々の絆を深く感じました。
 本当にありがとうございました。
 地域の中では民家の放射能除染作業が始まり、美しく咲き誇っていた花々が消えてしまい、まるで粘土でつくられた「箱庭のような環境」に見えてしょうがありません。園舎を取り巻く環境は自然がいっぱいで四季折々に楽しむことができていた、あの時のことがとても懐かしく思う毎日です

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