公益社団法人 全国私立保育園連盟

保護者

新しい発達の見方から見えてくるもの その(2)

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

子育ては楽しいばかりではありません

 わが子の笑顔は可愛いし、寝顔は愛しい。日に日に成長する姿を見るのは心から嬉しい。子どもが生まれてよかったと思えることが明日の頑張りを支えてくれるのは確かです。しかし、子育てはいつもそのような幸せや喜びをもたらしてくれるわけではありません。むずかる時、大泣きする時、聞き分けてもらえない時、あるいは病気の時など、お母さんがイライラしたり、不安になったり、どうしたらよいかわからなくなったり。そんな時、「子どもなんか生まなきゃよかった」と思ったりすることは誰にも起こることです。イライラが募って、つい手を挙げたくなる時もあるかもしれません。それも、誰にも起こることです。

 そのような照る日、曇る日がいろいろある中で、プラスの経験だけでなく負の心が動くマイナスの経験も、母が母らしくなっていく上には欠かせない経験なのです。こうして子育ての経験が積み重ねられて、子どもが小学校の高学年になる頃、お母さんはようやく母らしくなり、それまでの子育てを振り返って、「これまで一生懸命子育てをしてきたけれども、考えてみると、この子によって私が育てられたのかもしれませんね」と述懐することができるようになるのです。

 「子どもによって育てられた」という言葉には、深い意味があることはいうまでもありません。子育ては単に栄養を与え、清潔にし、健康を守るという子育て行為をするだけではありません。それらにはいつも子どもを愛する気持ち、子どもを守る気持ちが気づかないうちに働いています。しかもその願わしい心の裏側では、不安や心配や思い通りにならないイライラや、様々な負の心も動いています。そういう喜怒哀楽の心を伴ったすべての経験が母を母として育てるのです。

 世の中のことは何でも思い通りになるわけではありません。その中で、心を落ち着けて子どもとともにしっかりした生活をしていこう、このように考えられるようになるところに、母としての発達があり、それは子どもを育てることを通して身についたものだから、先の述懐がうまれるのです。

>③新しい発達の見方から見えてくるもの その(2)

新しい発達の見方から見えてくるもの その(2)

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

最初からお母さんだった人はいません

 前回(第4回)で見た図1を思い起こしていただきたいのですが、親を表す線分をお母さんの一生涯をあらわすとすると、お母さんがお母さんになったのは、右に進んできた線分が親になる(母になる)というところでくるりと一回転した時からです。もちろん、妊娠がわかった頃から、母になる心の準備は少しずつ進んでいたかもしれませんが、しかし、やはり子どもの誕生以後に、無我夢中の子育てを潜り抜ける中で、わが子が可愛い、わが子の命を守ってあげよう、わが子は何ものにも代えがたいという、母らしい心情が備わってきて、少しずつ母らしくなっていくのです。

 その過程がとても困難であることは、わが子が誕生後2か月経過したお母さんになりたての人が、ブログに「誰か助けて!誰か代わって!」と悲鳴を書き込む事情を見ても明らかです。誰もが人生で初めての経験です。祖父母同居なら、いろいろ教えてもらえるかもしれませんが、それができないとなると、育児書を見ながらの子育てを強いられます。近所の人ともつき合いがなければ助けてもらえません。子育て支援も、誕生間もない頃にはなかなか当てにできません。こうして、右往左往しながら子育てを開始するところが、図1では線分の「くるりと一回転」の部分に示されています。

 だからこそ、今のわが国の社会文化状況の中では、保育士の子育て支援が頼りの一つになるのです。

 職場復帰して、保育園に子どもを預けながらの生活も大変です。送り迎えを誰がするのか、帰宅後の家事を誰がどのように分担するのか、パートナーが一緒に子育ての役割を担ってくれるお母さんはいいとしても、パートナーの仕事内容によっては、それをあまり期待できず、それゆえにお母さんがなお忙しくなり、負の心が動きやすくなるということもあるかもしれません。

>②新しい発達の見方から見えてくるもの その(2)

新しい発達の見方から見えてくるもの その(1)

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

この図から読みとれること保育通信12月号-図1

(1)命は世代から世代へと連鎖する

 図1はまず、前の世代から命を引き継いで誕生した個が次世代に命をバトンタッチするということの反復、つまり命が世代から世代へと連鎖していく事実を描きだしています。誰しも、自分一人の力でこの世に生まれてきた者はいません。みな両親から命を引き継がなければ(両親から命をもらわなければ)この世に生まれ出てくることはできませんでした。このことは、お母さん自身をこの図に当てはめてみれば明らかでしょう。

(2)子どもの発達とお母さんの発達は 同時進行する

 今、わが子のAちゃんは3歳で○○保育園に通っており、Aちゃんはお母さんの家族の第1子だとしましょう。ということは、図でAちゃんは3年前に生まれ、お母さん やお父さんや保育の先生に育てられて、今3歳になったということです。そしてお母さんも、3年前に初めてお母さんになり、お母さんになって3年経ち、少しずつお母さんらしくなってきたということでしょう。

 それはつまり、Aちゃんの発達とお母さんの発達が同時進行することを意味しています。子どもだけが発達するのではありません。お母さんも、出産直後の何もわからない状態から、少しずつ母らしくなって、3年経った今は、ようやく職場復帰後の生活にも慣れて、しかしたら二人目がお腹の中にいるという状態で、そのことによってAちゃんの心にさざ波が立っているかもしれません。

(3)発達は身体面や能力面にのみ現れるのではなく、心の面にも現れるこの図の内側の楕円は、子どもと親がかかわり合えば、そこには必ず喜怒哀楽の心が動くという事情を描こうとしたものです。

 Aちゃんは単に身体が大きくなり、できることが増えて大人に近づいていくのではありません。お母さんや家族との生活の中で、喜んだり、悲しんだり、泣いたり、幸せを感じたり、幸せでないと感じたり、じつに複雑極まりない喜怒哀楽の心を動かして発達しつつある一個の主体です。

 お母さんも一緒です。単に子育ての仕方を身につけ、職場での仕事をこなせるようになったというだけではありません。Aちゃんを中心にした日々の生活の中で、また職場や地域社会の難しい対人関係をくぐり抜ける中で、母として、妻として、あるいは社会の一員として、様々な喜怒哀楽の心を動かして発達しつつある一個の主体なのです。

(4)一人の人間の一生涯が発達の視野の中で捉えられる

 親の世代の線分に注目してみてください。親はみな、最初は赤ちゃんでした。それがまわりに育てられて成長し、乳児期、幼児期、学童期、青年期をへて身体面、知的能力面では一応大人になりますが、それでもまだ〈育てられる者〉の気分は抜けません。

しかし、カップルをなしてわが子が誕生すると、急に〈育てる者〉の立場に移ることになります。それが人生の大きな節目だから、右にすすんできた線分がそこでくるりと一回転するのです。

 そしてその後、わが子を育てながら〈育てる者〉として成長し、わが子が親元を巣立っていく頃、今度は自分を育ててくれた親(子どもの祖父母)が老いてきて、その介護にあたり、その介護が終わる頃、今度は自分が老いてきて、子ども世代に介護してもらい、最期には土に還かえると考えれば、誕生から死に至るまでの一生涯がおおよそ見えてくるのではないでしょうか。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

第5回は1月上旬に更新予定です。

新しい発達の見方から見えてくるもの その(1)

鯨岡 峻(京都大学名誉教授) 

新しい発達の見方〈育てられる者〉から〈育てる者〉へ

 これまでの「発達」の考え方は、「子どもから大人へ」というように、20歳前後までの身体面や能力面の育ちをカバーするものでした。この発達の見方を少し変更して、子どもを〈育てられる者〉、大人を〈育てる者〉と置き換えてみると、発達についての考え方が大きく変わってきます。

 一つは、〈育てられる者〉である子どもは、一人で育つのではなく、育てられて育つのだという当たり前のことが視野に入ってきます。またそのことによって、〈育てる者〉である親は、子どもを育てることを通して親として育つということも視野に入ってきます。さらに、子どもとその親は、「育てる─育てられる」という関係で結びついていて、その関係そのものが時間とともに変容していくということも視野に入ってきます。

保育通信12月号-図1 要するに、子どもだけの単線的な発達という見方を越えて、〈育てられる者〉である子どもと、〈育てる者〉である親の、「育てる─ 育てられる」という関係そのものが時間とともに変容していくという、複線的な発達の見方ができるようになってくるということです。これはまた、今〈育てられる者〉である子どもがいずれは〈育てる者〉になるということが、発達の根本問題なのだということでもあります。

 私はこうした新しい発達の見方を「関係発達」と呼び、「〈育てられる者〉から〈育てる者〉へ」と定式化しました。これを、図1によって説明してみます。

 図1から、親の親(祖父母の世代)、親(親世代)、子ども(子ども世代)の各世代は、1世代分ずつ遅れて子どもの誕生があり、その後、相前後する世代は、「育てる─育てられる」という関係で結びつきながら、それぞれの生涯発達過程を同時進行させていっているのが見てとれます。

>②新しい発達の見方から見えてくるもの その(1)

これまでの発達の見方は、子どもを幸せにしましたか?

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

②これまでの発達の見方は、子どもも親も不幸にする面がある

確かに、育児書に「発達の目安」が示される場合にも、注意して読めば「これは平均的な姿を示したもので、個人差が大きいことを忘れないでください」と、たいていは注意書きが書かれています。そのとおりで、力のつき具合、つまり発達のすすみ具合には大きな個人差があり、目安が示すとおりに成長を遂げる子どもは一人もいないといってもよいほどなのですが、お母さんには「個人差」という考えはほとんど届かない感じです。

 加えて、近年、「発達障碍」の考えが世の中に広がるにつれて、「わが子は発達障碍ではないのか」という心配が重なり、何か少し変わった行動があったり、発達の目安から遅れたりしていると、すぐさま障碍を疑う風潮が大きく拡がってきたように見えます。「発達は順調か?」という問いは、「わが子は障碍ではないのか?」という問いと重なって、お母さん方の不安を助長してきたのは確かなようです。

 そこから、その不安を一掃するためにも、早くできることが増え、文字が読めたり書けたりするようになることを期待し、それを保育の場にも要望する動きが増えてきました。その中でも、今お母さん方の関心を強く惹きつけているのは、漢字を書く力を早く身につけるためなどの塾通いの問題でしょう。

 「上の子が小学校に上がる時、わが子は自分の名前しか書けなかったのに、幼児塾に通っていたよその子は入学の時点で40個も書けるようになっていた。

 私は上の子の教育に失敗したのだ。だから下の子には早くから幼児塾に通わせて、上の子の失敗を繰り返さないようにしよう」

 こんな考えになるお母さんが今とても多いように思います。しかし、本当にそれは失敗だったのでしょうか。今の事例を、図1で考えてみます。

図1 お母さんの関心は、入学の時点での差にあります。その時点で40個書けるA君の力と4個しか書けないわが子の力を比較して、「失敗した、早くからさせればよかった」となるのですが、この差はほとんどの場合、2年しないうちに埋まってしまうのです。

 もしも埋まらずに、その差がずっと持ち越されるなら、私も早期教育を推奨します。しかし、実際には、図1のようにほとんどの場合、8歳までに追いついてしまうのです。

 だとすると、この図はどのように考えればよいでしょうか。A君のお母さんは2年間、「わが子はよその子よりもよくできる」と自慢する気持ちになれただけです。そしてA君はB君よりも塾通いをした分、思う存分に遊べなかったことになり、B君は塾通いをしなかった分、A君よりもいっぱい遊ぶことができて、楽しい経験をたくさん積めたことになります。ただそれだけのことです。

 こうしてみると、これまでの発達の見方は、子どもの育ちを急がせる結果を生み、子どもを苦しめ、お母さんをも苦しめる意味合いをもっていたということになるのではないでしょうか。ここから、発達の見方を見直す必要が見えてきます。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

第4回は12月上旬に更新予定です。

これまでの発達の見方は、子どもを幸せにしましたか?

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

①これまでの発達の見方とわが子の発達を急ぐ親心

 「発達」の考えは、「誕生後、できることが年齢とともに増加し、20歳前後で人間の能力として完成する」という考えの上に組み立てられています。この考えに基づいて、それぞれの年齢ごとに「できること」の平均値が「発達の目安」として示されることになります。この知識が育児書などに示されるようになって以来、お母さん方の子どもの見方は、常にわが子の発達は「目安」に届いているか、届いていれば安心、届いていなければ不安というように、「目安」に沿ってわが子の「できる、できない」を確認する見方になってきました。

 このことが、「早く○○ができるように」と子どもの育ちを急ぐ風潮の一因となってきたように見えます。

 確かに、ほぼ同月齢や同年齢のよその子どもが、わが子よりもできることが多かったり、利発だったりすると、お母さん方は心配になりますね。特に言葉の発達の心配は、多くの親が取りつかれるものです。そして、それまで言葉らしい言葉が聞かれなかったのに、ある日急に耳に聴き取れる言葉が聞こえてくると、嬉しくなり、「大丈夫だったのだ」と安心し、ならばもっと先を急いでという気持ちになります。これは、昔から「這えば立て、立てば歩め、の親心」といわれたとおり、ごく自然な親心のようにも見えます。

 しかし、目安との比較、よその子との比較によって、それに一喜一憂する近年のお母さん方の姿は、一昔前には見られないほど、熱のこもったものになってきています。こうして、どうすれば早く言葉を話せるようになるのか、どうすれば知的な能力を早く身につけさせられるかと考えるようになって、様々な情報を追い求め、早い発達を期待する気持ちが大きく膨らんで、子どもの育ちを後ろから押すかたちの子育てに傾くようになってきたのです。

 このお母さんの期待と不安は、さらに「もう3歳では遅い!」という幼児教育産業の脅し文句にあおられ、そして「あそこでも○○幼児塾に行かせている」「あそこの園では○○を特別に訓練してくれるそうだ」という情報に乗せられて、いつのまにか幼児教育教材を買い入れ、あれをさせる、これをさせるというように、発達を急がせる動きに引き寄せられてしまうようになったのでしょう。

 >②これまでの発達の見方は、子どもも親も不幸にする面がある

子どもの「できる、できない」から、子どもの心に目を向けるために

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

③「できる、できない」に目が向かうと、子どもの心に目が向かわなくなる

 「早くこれができるようになってほしい」「まだこれができないの?」という目でわが子を見るようになると、自然にお母さんの目は子どもを外側から見て、「できるか、できないか」を詮索する見方になり、子どもの心に自分の気持ちを寄り添わせるという、子育てに欠かせないお母さんの優しい心の動きが弱くなってしまいます。またそのことによって、自分の愛情が子どもに届いているかどうかにも気持ちが向かなくなり、物を買い与える、行楽に連れて行くことなどで、子どもを愛しているつもりになるという錯覚に陥るようになりました。

 こうして、お母さんの願いに沿って行動した時には、ネコ撫で声で可愛がるけれども、泣いたり、ぐずったり、ふてくされたりした時には、簡単に「もう知らない」という冷たい態度をとるようになってしまったのだと思います。

 子どもはといえば、そういうお母さんの「早く、早く」と急き立てる対応や、「まだこれができないの?」という厳しい目に接して、次第に心が圧迫され、「自分はダメな子」と思ったり、「自分のことをお母さんは嫌いなんだ」と思ったりするようになって、お母さんに対する信頼感が揺らぐようになってしまいました。それがモヤモヤした気持ち、イライラした気持ちになったり、今一つ元気になれず、いろいろなことに意欲が湧いてこなかったりする理由になっているのです。

 けれども、子どもの心に目が向かわなくなったお母さんにはそれがわかりません。そしてそれがわからないので、さらにできることを求め、何かをさせようと身構え、保育の場にも「あれをさせてください」「これをさせてください」と求めるようになるのです。

 お母さんのこの強い子どもへの期待や働きかけはみんな、「発達」を前にすすめようとする働きかけです。発達がすすむということは、右肩上がりの進歩向上の考え方と重なって、願わしいことだと信じられています。ですから、発達を前にすすめることに問題が孕まれているとは、お母さんにはとても思えません。

 こうして、今の自分の子育てのあり方が肯定され、自分の思い通りに子育てがならないのは、この子に問題があるから、保育の場が今一つしっかりしていないから、と思いこんで、自分の子どもの見方、発達の考え方に問題が孕まれているというふうには考えられなくなってしまいます。では、どう考えればこうした状態を抜けだせるのでしょうか。

第3回は11月上旬に更新予定です。

子どもの「できる、できない」から、子どもの心に目を向けるために

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

②できれば「よい子」に、悪くても「普通の子」に育てたい

 ひところ、「よい子」「普通の子」「ダメな子」というように、子どもを三分割する見方が流行り、お母さんの多くは、わが子はできれば「よい子」に、悪くとも「普通の子」に、そして「ダメな子」や「できない子」には絶対にしたくないと、いつの間にか思うようになってしまいました。お母さんの中には、自分が子どもの頃、まわりの大人に「ダメな子」と見られて嫌だったから、わが子にもそういう思いをさせたくないと思っている人もいるかもしれません。

 このことが、「できる、できない」と「聞き分けのよさ」という点から子どもを見る見方を助長したように思います。そして、「できる、できない」の見方の上に組み立てられているのが「発達」の考え方ですから、できることが増えることは、発達を前におしすすめることだからよいことだ、それが子どもの成長につながり、ひいては子どもの将来の幸せにつながるのだという考えに結びついていったように見えます。

 こうして、できることが増え、聞き分けがよいことは、「よい子」であってほしいというお母さんの願いと合致するばかりではなく、それはまさに「子どものため」なのだと考えることができます。そこから、何とかして早くできることを増やして、聞き分けよくできるようにしたい、というお母さんの気持ちがよりいっそう強められることになります。

 これが今の「あれをさせて」「これをさせて」というように、次々に何かをさせて力をつけるための子育ての仕方を導き、またそれを保育の場にも求めるという流れが生まれ、「早期教育推進」という掛け声に諸手をあげて賛成する風潮をつくりだしているのだと思います。

>③「できる、できない」に目が向かうと、子どもの心に目が向かわなくなる

子どもの「できる、できない」から、子どもの心に目を向けるために

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

①お母さんの目が、子どもの「できる、できない」に向かうのは、なぜ?

 「早く○○ができるように」「早く聞き分けができるように」「早くみんなと同じ活動ができるように」と、お母さんの気持ちは、子どもの心に向かうよりも先に、子どもの「できる、できない」に向かっているように見えます。なぜそうなってしまったのでしょうか?

 確かに、「早く、早く」とお母さんがいってしまうのは、実際に生活が忙しく、朝も勤務先に遅刻寸前、夕方も家事の準備で時間がないからでしょう。実際、身のまわりのことくらいは自分でさっさとしてほしい、グダグダいわずに私のいうことをさっと聞き分けてほしい、というお母さんの気持ちもよくわかります。 

 また「できる、できない」の能力面に目が向いてしまう理由には、「まわりから、みんなよりも劣っていると思われたくない」「保育参加の際に恥かしい思いをしたくない」「早くいろいろなことができていないと、学校に上がってから心配」「競争社会で生き残るには、まわりの大人を見ても力がすべて」というような思いをお母さんが抱いていることもあるかもしれません。 

 こうしてみると、「早く、早く」も「できる、できない」も、実際にはお母さんの都合やお母さんの不安、あるいはお母さんの子育てについての考え方からきていることに気づきます。もちろん、お母さんは、そうしたことはみんな子どものためだと思っているはずです。子どものためにこそ、早くいろいろなことができ、率先して集団の流れに乗り、聞き分けよく振る舞ってほしいと。 けれども、それは本当に「子どものため」でしょうか?私の目には「子どもため」というよりも、お母さんの子どもの見方の問題、発達の考え方の問題、ひいては、お母さん自身の不安の問題がその背景にあるように見えるのです。 

>②できれば「よい子」に、悪くても「普通の子」に育てたい

わが子は今、何を一番求めているでしょうか?

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

③お母さんの気持ちは、今、わが子の心に向かっていますか?

 お母さんは、今、わが子をどのような目で見ているのでしょうか。できることが早く増えればいい、聞きわけがよければいい、というように、能力面や聞きわけのよさの面ばかりに目を奪われて、わが子の心の動きに目が向かなくなっていませんか?だから、わが子が本当に求めているのは自分の愛情なのだということに気づかなかったのではありませんか?

 忙しさのあまり、「早くしなさい!」「ちゃんということを聞いて!」と自分の思いを子どもにぶつけてばかりいるお母さんが、残念ながら増えてきました。

 子どもの心の動きは、ある行動が「できる、できない」のようには目に見えません。目に見えない心の動きは、お母さんが自分の心を子どもに寄り添わせない限り、感じとることができないものです。逆に、子どもの心にお母さんの気持ちを寄り添わせることができれば、子どもの心の動きがお母さんの心に伝わってきます。そうすると、「何かわからないけど、モヤモヤしているみたいね」「イライラしていることがあるようね」「元気いっぱいだね」というふうに、子どもの心がいろいろと摑つかめてきます。そのように子どもの気持ちが摑めれば、抱きしめてあげよう、添い寝をして本を読んであげよう、褒めて認めてあげよう、というように、子どもへの優しい対応も自然に出てきます。

 しかし、お母さんがもしも気持ちを子どもに向けていなければ、子どもの心の動きは摑めません。摑めないと、お母さんの思いを子どもにぶつけるだけのかかわりがみちびかれてしまいます。ここに今、家庭での子育ての大きな問題の一つがあるように思われます。

>第2回 子どもの「できる、できない」から、子どもの心に目を向けるために