公益社団法人 全国私立保育園連盟

保護者

自己主張は大事ですが…
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

大事な自己主張

 7、8か月の離乳食期の赤ちゃんが、首を振って「いや、もういらない」という気持ちを伝えてくるのは、自己主張の萌芽といってもよいものです。その首を振るという行動には、たくさん食べてほしいお母さんの思いとは異なる、その子自身の思いが滲みでています。それを発端に、2歳前後になると、もうできることでも「お母さんがして」と甘えてみたり、寒いからこれを着てとお母さんがいっても「いや」と拒んだり、しだいにお母さんの思いとは異なるその子の思いが表明されてきて、これが2歳以降の強い自己主張につながってきます。

 こうした子どもらしい自己主張やその萌芽は、これからその子が一個の主体として世界に進みでて、自分らしく生きていくための欠かせない大事な姿、つまり、成長してきたからこそ現れてきた大事な姿だといえます。逆に、もしもこうした自己主張が乏しく、これをしたい、これがほしい、これはしたくない、と自分の思いをお母さんに素直に伝えられないとすれば、それは一人の子どもの育つ姿としては大いに気になるといわなければなりません。特に大人の顔色を窺って聞き分けよく振る舞い、必要な自己主張をしない子どもの場合には、お母さんに聞き分けのよい「よい子」に見える分、お母さんはその子の育ちが抱える問題点に気づきにくく、今の子育てでよいのだと思い違いをしてしまいかねません。

 しかし、お母さんから見れば、年齢とともに、「こうしてね」というと「いや」といい、「これは駄目よ」といっても聞き入れてくれないなど、お母さんの思いや願いと衝突することがどんどん増えてきます。そうなると、こうした子どもの自己主張は、成長したことを示す望ましい姿だと見えるよりも、聞き分けのよくない、分別のない未熟な姿だと誤解されやすくなります。

 確かに、幼い子どもの自己主張は、そのすべてが大人に受け入れられるものではなく、そのために子どもとのあいだで押し問答が繰り広げられる厄介な面があることはその通りです。そこに子育ての難しい一面があることは間違いありません。それにもかかわらず、そうしたお母さんを困らせる面のある子どもの自己主張が、これからの子どもの育ちにとって欠かせない大事な意味をもっているのです。

>②自己主張が通らないという経験も大事です

「褒めて育てよ」といわれていますが…
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

真心のこもらない「褒める」にならないために

 お母さんや保育者が子どもを動かすための道具として「褒める」を利用するようになると、「すごいね」「よかったね」「いいのができたね」「素晴らしいね」といった褒め言葉が、しだいに「引き出し言葉」に転じていきます。「引き出し言葉」というのは、お母さんの本当に「嬉しい!」「よかった!」「すごい!」という真心のこもらない平板な褒め言葉のことです。

 「よくできたね」「素敵だね」と、外見は褒めているように見えるけれども、本心はそれほど肯定的に見ているわけではなく、これをした時にはこの言葉をと、ルーティン化した言葉のことです。それはもはや本来の「褒める」からかけ離れてしまった言葉ですが、しかしお母さんは褒めているのだと思い込みやすいのです。「ちゃんと褒めているのに、嬉しそうにしないわね」とお母さんが思うのは、褒める時の言葉がお母さんの真心から生まれていないこと、引き出し言葉になっていることを子どもが敏感に感じとっているからでしょう。

 そしてもう一つ。多くの場合、「褒める」は子どもの行為の結果に向けられます。上手にお母さんを描いてくれたから褒める、かっこいい製作物を作ったから褒める、お手伝いをしてくれたから褒めるなど、お母さんの願った行為の結果を褒めるのが普通です。それがお母さんの喜びを伴った「褒める」である時に、子どもはその結果が嬉しい以上に、自分が認められたことが嬉しいのですが、そこで本当に大事なのは、行為の結果ではなく、それに取り組もうとした意欲や姿勢です。

 それを嬉しいこととして褒めることがもっとあってもよいのではないでしょうか。つまり、褒めるが結果に向かうのではなく、子どもの心の動きに向かうようになると、きっと「引き出し言葉」は消えて、子どもは幸せに近づくことができるでしょう。

第12回は8月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

「褒めて育てよ」といわれていますが…
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

大人の願いを叶えるための「褒める」になっていませんか?

 さて、「褒める」が生まれる通常の場面を前に記しましたが、昨今のお母さんや保育者の「褒める」は、次第に本来の意味をはみ出して、自分の願い通りの行為が生まれた時に「褒める」というふうに、子どもの行為を篩にかける意味合いをもつようになってきました。

 第2回目で取りあげた「条件付きの愛情」と同じように、お母さんの願っていることをしてくれたら「褒める」というように、「条件付きの褒める」になってきているように見えるのです。「片づけをちゃんとしたら褒めてあげる」「市販のワークブックをちゃんとやったら褒めてあげる」といように、お母さんがしてほしいことと「褒める」こととが引き替えの条件になっている場合が目につくようになりました。

 そうなると子どもは、本当はお母さんの願っていることをしたいわけではないのに、褒められたいがために、自分のしたいことを諦めてでも、お母さんの願うことをしてしまうようになっていきます。

 そして、それはお母さんにとっては嬉しいことなので、大いに褒めることになり、しかも褒めることは子どもを喜ばせるので、自分のしていることは正しい子育てだと思い込みやすくなります。そこに落とし穴があるのです。

 自分からした行為がお母さんの「褒める」に出会って、嬉しい気持ちになり、前向きの意欲が湧くというのが願わしい流れです。それが、褒められたいからお母さんの意に沿うことにスライドすると、しだいにそれをすることが自分のためなのか、お母さんを喜ばせるためなのかの見分けがつかなくなって、しだいにお母さんに自分を譲り渡し、お母さんのいい子になろうとすることにつながります。それが怖いのです。

 お母さんは、褒めると子どもが聞き分けよく自分の願いを聞いてくれるので、嬉しいし、子育てがしやすくなり、「褒めると育つのだ」と思い込みやすくなります。しかし、そのような意味での「褒める─ 褒められたい」の関係が繰り返されると、褒められることを過剰に求め、褒められなければ何もしないという状態にしだいになっていきます。それは、子どもが一個の主体であることを見失った状態だといわなければなりません。

 これが、子どもが大きくなった時に、「自分から意欲的に物事に取り組むことができない」という負の事態を招くのです。

>③真心のこもらない「褒める」にならないために

「褒めて育てよ」といわれていますが…
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

「褒める」ことは難しい

 メディアなどでも「褒めると育つ」とか、「褒めることが大事」とよくいわれ、お母さんたちも子育てでは褒めればよいのだと思っている人が多いと思います。保育園でも、保育者の褒める場面に出会うことはとても多いと思います。しかし、前回の「叱る」が難しかったように、「褒める」も実は難しいのです。なぜでしょうか?

 確かに、褒めれば子どもは嬉しい顔になります。そこから、褒めることは子どもとの関係をよくすることにつながると考えられることが多いのですが、ところがそこに落とし穴があります。

 まず「褒める」ことは、子どもの行為に向けられた肯定的な評価の意味をもちます。つまり、「〇〇ができた」「△△が描けた」という子どもの行為に対して、「いいのができたね」「素敵だったね」という肯定的な評価を下すのが「褒める」という大人の行為です。その肯定的な評価は、子どもにとっては自分の行為がまわりに認められたことを意味しますから、当然嬉しい気持ちになり、またやってみようという意欲につながります。そこに、「褒める」ことの大事な意味があることはいうまでもありません。

 しかし、「褒める」が子どもにとって嬉しいのはそれだけではありません。大人の「褒める」言動には、たいていは大人の嬉しい気持ち、喜びが伴われています。その正の情動が子どもを包み、それが子どもには「自分は認められている」「自分の存在が喜ばれている」というふうに感じられます。だから、なおさら嬉しいのです。

 ちょうど「叱る」に「怒り」が伴われることが多かったように、「褒める」に「喜び」が伴われることが多いので、子どもは大人の「褒める」を、その時の行為が褒められたという意味を越えて、自分の存在が認められた、自分の存在が肯定されたというふうに取るので、褒められたことをとても喜ぶのだといってもよいかもしれません。その意味での「褒める」ことは、子育てでも保育でも、もちろん大事なことです。

>②大人の願いを叶えるための「褒める」になっていませんか?

子どもを「叱る」ことは難しい
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

優しい母として生き残る─ 行為を叱って存在を否定しない

 子どもはお母さんに強く叱られると、お母さんは自分を嫌いになった、自分の存在を否定したと受けとって、自分の行為がいけなかったから叱られたのだとすぐには考えません。それが先に述べた反抗的な言葉をぶつけてきたり、小さく縮こまったりすることにつながるのですが、それは自分の存在が否定されることへの子どもなりの抵抗の表れと考えることができます。

 ですから、ここで大事なのは、まずはお母さんが叱った後に怒りを鎮め、「お母さんが叱ったのは、あなたのした行為や言動があまりにひどかったからで、あなたの存在自体を否定したのではない。つまり、あなたを嫌いになったわけではない」ということを、どのようにうまく子どもに伝えるかです。怒りがエスカレートしやすいのは、子どもの反抗的な態度が許せないと思うからですが、しかしその態度は子どもが自分を守ろうとしてとっているものなのだとわきまえることができれば、一呼吸置くことができ、自分も小さかった時、こういう態度をとっていたにちがいないなどと思ったりして、怒りが鎮まる方向に向かうのではないでしょうか。

 イギリスの小児科医で、精神分析家でもあったウィニコットは、母親の子育てについて述べる中で、「母は叱ってもよいが、怒り狂ってはならない。叱っても、最後は、優しい母として生き残らならなければならない」といっています。まさにその通りです。

 子どものお母さんへの信頼感と自分の自己肯定感は、お母さんが優しいと思うからこそ生まれてくるものです。それがお母さんの怒りを伴った強い叱る行為や態度に出会うと、お母さんは優しいというイメージが揺らぎ、そのためにお母さんへの信頼感と自分の自己肯定感が揺らぎます。その揺らいだ信頼感と自己肯定感が修復されるためには、お母さんが再び優しい母として子どもの前に立つ必要がある、というのがウィニコットのいいたいことなのです。

 ですから、子どもの反抗的な態度を自分の存在が脅かされた結果だと考え、「叱ったのはあなたのしたことがいけなかったからで、あなたの存在を否定したのではない。
お母さんはあなたが大好きなの。いつも心配しているのよ」と、叱った後をしっかりフォローすることができれば、自分がこんないけないことをしても、お母さんはやっぱり優しいお母さんだということがわかり、信頼感と自己肯定感が修復されて、自分がいけなかったことを自分で認めることができるようになってきます。

 お母さんのその気持ちは、必ずしも言葉で伝えなくても、黙って抱きしめてあげたり、さりげなくおやつを一緒に食べたりして表現することもできるのではないでしょうか。

第11回は7月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

子どもを「叱る」ことは難しい
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

怒りはエスカレートしやすい

 子どもが4、5歳にもなると、自分のしたことがいけなかったことは大抵の場合、もうわかっています。でも、お母さんが強く叱ると、子どもは自分を守ろうとして、理屈をいってみたり、嘘をついたり、ふてくされたりして、なかなか素直に聞き入れようとしません。そして恨みがましい目でお母さんを見て、「お母さんなんか、嫌いだ!」といい放ったり、大泣きになったり、逆に、小さく縮こまってしまったりします。

 そんな時、お母さんは腹立ちまぎれに、さらに子どもを責める態度を強めてしまう場合があるでしょう。「なぜ素直に自分がいけなかったと認められないの!」とか、「そんな態度は許しません!」というように、子どもと自分のあいだに溝をつくるような強い言葉の追い打ちをかけ、「ごめんなさいをいいなさい!」と、さらに怒りをエスカレートさせてしまうことさえあるかもしません。

 お父さんや、お祖母ちゃんがそばにいたりすると、「まあまあ、そこまで怒らなくても」と水入りになるでしょうが、核家族でお母さんと子どもだけでいると、どうしても立ちあがった負の感情をお母さん独りで抑えることが難しく、怒りがエスカレートして、怒鳴ったり体罰を与えるなど、虐待に近い状態さえ生まれかねません。

 叱ることは子どものためにも必要なのですが、その時に、お母さんが怒りをエスカレートさせないためにどうしたらよいかを考えておくことが、家庭の子育てではとても大事になってきます。

>③優しい母として生き残る─行為を叱って存在を否定しない

子どもを「叱る」ことは難しい
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

「叱る」ことが難しいのはなぜ?

 お母さんは、子育てにおいて子どもを叱ることが難しいと感じる場面をたくさん経験していると思います。なぜ、叱ることが難しいのでしょうか?その根本には、子どもはお母さんとは異なる一個の主体だということがあります。
 主体としての子どもには、お母さんの思いとは違う思いがしばしばあり、いつもお母さんの願った通りに振る舞ってくれるわけではありません。子どもの思いとお母さんの思いが衝突する時、子どもは泣いたり、わめいたり、地団駄踏んだりして、自分の思いを通そうとします。それは、お母さんへの信頼感と自分の自己肯定感が育ち、その結果として「私は私なのだ」という思いが高まるからなのですが、しかしお母さんの立場としては、わが子のその振る舞いを許容できない場合がしばしばあります。その場合、まずは禁止や制止が向けられますが、それでもなお、わが子が自分の思いを貫こうとする時には、叱ってその行為にストップをかけることも必要になってきます。

 その時、お母さんの叱る言葉や態度は、本来はその子の負の行為(行動)に向けられていて、その子の存在を否定する意味をもっているわけではないでしょう。ところが、お母さんは子どもの負の行為を抑えるために叱ったつもりでも、子どもは、「お母さんは僕を(私を)否定した」と受けとってしまうことがほとんどです。その結果、いじけたり、隅に引っ込んだり、逆にキレたりして、気持ちを立て直せない場合がしばしば生じます。
 なぜそうなるかというと、お母さんの「叱る」がしばしばお母さんの腹立ちからくる「怒り」を伴い、それによって子どもは自分の存在が否定されたと思って逆恨みをしてしまうからです。しかしだからといって、もしもお母さんが叱ることを躊躇してしまうと、子どもは何をしてもよいのだと、したい放題になってしまいます。強く叱ると小さくしぼみ、甘くすると膨らみすぎる。ここに叱ることの難しさがあります。

>②怒りはエスカレートしやすい

心の育ちの中でも 信頼感と自己肯定感は必須のものです
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

「教育」は大人の一方通行の働きかけではありません

 教育というと、人はすぐ、何かを教える、何かをさせることだと考え、こうしなさい、これはいけませんと、次々に指示を出すことだと錯覚しがちです。お母さんたちの世代がまわりからがみがみいわれて育てられたことが、そのような錯覚に一役買っているのかもしれません。
 しかし「教育」という営みは、大人の「養護の働き」と「教育の働き」がうまく組み合わせられて子どもに振り向けられ、しかもそこに子どもの側の学びたい、知りたい、そうしてみたいという思いが絡んできて初めて、子どもの真の力になりかわるような営みです。ですから、指示、命令の形で「教え込む」ことは、決して本当の生きる力に結びつきません。大人への信頼感と自分への自己肯定感を背景に、子どもの学びたい気持ちが生まれ、そこに教える働きがうまく絡めば、その時、大人の願う力が子どもに育ってくるのです。
 大人の教えたいという思いと、子どもの学びたいという思いが結びつく時に、もっとも願わしいかたちの「教える─学ぶ」の関係が生まれます。この時、子どもは学ぶことが楽しく、また嬉しいと思えるでしょう。
残念ながら、今わが国の育てる営みの中に、このような願わしい「教える─学ぶ」の関係は定着していません。大人の側からの一方通行の指示・命令の教える営みは、勉強嫌いの子どもを多数生みだす結果にしかなっていないのです。

第10回は6月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

心の育ちの中でも 信頼感と自己肯定感は必須のものです
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

「非認知的な力」を育てるといわれていますが…


 今、保育の世界でも学校教育の世界でも、急に「非認知的な力」を育てるということがいわれるようになりました。学力のような能力の育成だけでなく、他者と協同する力、失敗してもくじけずに再挑戦する力、諦めずに粘り強く物事に向かう力などが、育ってほしい力の中に含められるのだという議論です。もちろん、そのような「非認知的な力」は大人になる過程で子どもがぜひ身につけてほしいものです。これに関しては、お母さん方も異論がないと思います。
 しかし、それらの力をどのように育むのかについては、これを議論する人たちのほとんどが言及していません。その「非認知的な力」とは、子どもの心のもちようなのですから、本当は子どもの心の中心にくる信頼感や自己肯定感とのつながりが考えられなければなりませんが、そのような議論にはなっていないのです。
 私は、子どもの心の中にまわりの大人への信頼感や自分への自己肯定感が本当に育っていれば、「非認知的な力」は必ずそれにくっついて育ってくると考えています。
そして、子どもに「非認知的な力」が育っていないように見えるのは、単にその力を育成するための努力が子どもに向けられていないからではなく、それらの力が育つための前提となる、信頼感や自己肯定感が十分に育っていないからだと考えます。
 そうしてみると、やはり信頼感と自己肯定感を育むことが先決で、だからこそ、お母さんやまわりの大人の「養護の働き」が欠かせないといえるのではないでしょうか。

>③「教育」は大人の一方通行の働きかけではありません

心の育ちの中でも 信頼感と自己肯定感は必須のものです
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

信頼感と自己肯定感が育つ経緯

 子どもの育ちを目に見えるところで追いかけると、あれができた、これができたというところに目が向きますが、子どもがこれから大人に向かって成長していく上で欠かせないものとして重視してほしいのは、まわりの大人に対する子どもの信頼感や安心感、さらには子どもが自分について抱く自己肯定感です。

 信頼感は、まわりの大人が「養護の働き」の下で、いつも丁寧にかかわってくれることを通して、「この人が(お母さんが)いれば安心」、「この人は(お母さんは)いつもいい具合にしてくれるから大好き」と思えるようになることから、子どもの心に宿るものです。
 また自己肯定感というのは、まわりの人が自分のことを大事に思ってくれている、愛してくれていると子ども自身が確信することができ、そこから、自分は大丈夫なのだ、自分は大事なのだという思いが子どもの心に宿ることです。

 この重要な二つの心が育つ経緯を、図で説明してみます。保育通信5月号-図

 まず、信頼感も自己肯定感も、子どもを褒めれば育つかのような誤解が広がっていますが、外部から「褒める」という具体的な行為が与えられることが、これらの心が育つための条件ではありません。大人の心のもち方や心の動かし方が、子どもの心に流れ込んで、子どもの心になりかわるのです。大人の「愛している」という思いが子どもの心に流れ込んで、自分は愛されていると思った子どもは、愛してくれるお母さんは大好き、お母さんがいれば大丈夫と、お母さんへの信頼感を育む一方、自分は愛されている、自分は大事にされている、自分は大事なのだというかたちで、自己肯定感をもてるようになります。

 ですから、信頼感も自己肯定感も、大人の「養護の働き」(愛情)を離れてはその成り立ちが考えられないものです。「褒める」という行為の裏で動いている大人の本音の思い(愛情)が子どもの心の育ちにつながるのであって、褒めても愛する気持ちが動いていなければ、図中の下段の流れになって、大人への不信感や自分への自己否定感が心に宿ることになってしまいます。

>②「非認知的な力」を育てるといわれていますが…