公益社団法人 全国私立保育園連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

まどか保育園の現在まで【6】東日本大震災~あの日・あの時

東日本大震災・福島第一原発事故後2年8か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【6】
東日本大震災~あの日・あの時

【保育通信No.703/2013年11月号】

◆「まだ終わっていない」ということを 知ってほしい
 地震発生時、私は本園舎にいました。地震の揺れの時、もも組付近にいたので行ってみると、午睡後のようで、保育者のまわりに園児が集まっていました。
 揺れが激しくなってきたので、アップル組に行ってみると、子どもたちは保育者のまわりに集まり避難をしていました。まだまだ激しい揺れの中、私は新園舎のほうへ行ってみました。新園舎までのわずかな道も揺れていて、やっとの思いで辿り着くと、さくらんぼ組、いちご組の部屋も、午睡後の子どもたちがとても不安そうに保育者のまわりに寄り添い、揺れがおさまるのを待っているのが目に入りました。
 この時、すでに部屋の中もグチャグチャで、ベビーベッドはロックしているはずなのに激しく揺れ、避難準備のため開けてある窓も大きく左右に揺れて、物が落ちる音が次々に聞こえてきました。私はただごとではないと感じたので、大きな揺れの中、あるだけのおんぶ紐を保育士にわたし、揺れが落ち着いたら、すぐ避難できるように声をかけました。
 柗本先生も来てくださり、やっと落ち着いてきた時を待って直ちに避難しました。毎月避難訓練もしていたこともあり、避難はスムーズに進みました。しかし、想定外の地震の大きさだったので、保育士も不安でいっぱいでした。無事に避難の報告も済みましたが、園舎の中、園庭、戸外が一瞬で変わり果てた様子を見ると、冷静に考えなくてはならないのに、不安でいっぱいでした。
 1回目の大きな揺れがおさまっても、次々に余震が起きて、そのたびに曲がってしまった電柱の電線がバチバチと火の粉を上げたり、地割れしている地面、また雪もちらついてきて、子どもたちをはじめ、みんなのいっそう不安になってきた顔が忘れられません。
 テレビで、津波の避難指示も出されたことも知り、北小学校へ避難することになりました。何人かの保護者のお迎えがありましたが、まだ大半の子どもたちは残っており、みんなで道路もグチャグチャになっているところを通りながら、避難先の小学校へ向かいました。電話もケータイもつながらないという状況だったので、園長先生が園に残り、保護者の方に伝達してくださいました。
 余震もあったので、ほとんど何も持たないまま、保育士と子どもたちは北小学校へ行きました。すべてが想定外のことで、避難訓練で訓練してきたことまでは想定できる範囲内でも、そこから先は未知の世界でした。まだ5か月の子どももいて、物資が来るまでミルクやおむつの手配ができなかったので、一度園に取りに戻ったりと、準備不足に後々反省させられました。
 子どもたちは、園長先生の伝達もあり、名簿を正確にチェックしながら、夜7〜8時頃には全員無事、保護者のもとに帰ることができ、それが一番安心しました。
 やはり、避難グッズをすぐ持って避難することなど、今だからたくさんの反省があります。でも、本当に想定外というか予想もつかないような長く強い揺れだったので、いかに冷静に動けるかということが重要なのだと思いました。
 また、今回の原発事故は、本当に映画のような出来事で、それが一瞬で私たちの生活を奪ってしまったという事実は、今も私たちにたくさんの不安を与えています。

 私は、震災前は双葉郡広野町に住んでいました。今の広野町は、避難指示も解除になり、戻っている住民もいますが、まだまだという状況で、原発で働く人が多く住み、働いている人で賑わってはいます。
 しかし私個人としては、4歳と2歳の子どもがいるので、まだ放射能や原子力発電所への距離、幼稚園の機能の不安など、まだまだ抱える不安も多く、いわき市へ避難しています。子どもをもつ母親として甲状腺癌への不安、子どもたちの将来の不安、今現在の不安といつも闘っています。半月に1回の健康検査では採血があり、内部被爆の検査結果が出るまでの不安や、戸外はどのくらい大丈夫なのかなど、いつも不安と隣どうしの生活を送っています。
 メディアを見ては、いろいろな意見があり、また考えてしまったり、将来への見通しも立たず、幸い親族が近くにいますが、同級生の同じくらいの子どもをもつ友人たちは県外へ避難している人も多く、また一人で不安になったりする毎日です。
 3月11日から、何も持たずに避難し、埼玉県、愛知県、そしていわき市に落ち着き、気持ちも前へ向こうとしても、たくさんの不安と悩みから、抜け出せなくなっています。それでも子どもたちは成長し、日々は流れていっています。たぶん、子どもをもつ母親でなくても、そういう避難をしている方たちは、いろんな悩みや不安を抱えて生活していると思います。
 確かに、何も起こらなくても、そういう悩みや不安は日々の中で何かしらあったと思います。でも私たちは、常に今、将来、そして故郷への思い、たくさんの不安と思いを抱えています。2年半が経過して、だんたんと事の重大さも薄れていっているように感じます。でも、「まだ終わっていない」ということを、自分自身もそうですが、まだまだみんなに知っていただきたいと思います。

(堀江裕美/保育士)

◆とにかく健康でいなければ
 2011年3月11日、この日から人生が大きく変わってしまいました。
 度々地震が起きていたので、近いうちに大きな地震が起こるのではないかと思っていましたが、これほどの大震災になるとは思っていませんでした。まして、自分たちが原発事故により被災避難することになるなどとは、夢にも思っていませんでした。
 最初は、なかなか現実を受けとめることができず、夢であってほしいと何度思ったことかわかりません。
 突然、日常が壊され、家族もバラバラになり、愛犬もあるだけのエサを出して置いてきてしまいました。
 普通の暮らしがどれほど大切なものだったか、今回の震災で痛感しました。震災当時は、一日も早く一時帰宅したいと願っていましたが、2回、3回と戻るうちに、この間までここで生活していたんだと思うと、一時帰宅で帰るたびに切ない気持ちになり、荒れていく風景を見ながら、涙をこらえて戻ってきています。
 あちらこちらで、家を建てたとか中古物件を見つけたとか、それぞれ前に進んでいますが、わが家はこの先どう動いていいのかわからず、決めかねています。
 先が見えないもどかしさ、宙ぶらりんでいる状態が辛く感じる時もありますが、震災から2年半が過ぎようとしている最近になって、やっと少しずつでも前に進まなくてはという気持ちになってきました。
 まだまだ不安なことが多い現実ですが、いろいろな方からの支援に、感謝する気持ちを忘れず、前を向いていかなくてはと思います。
 浜通りとは気候の違いを実感していますが、とにかく健康でいなければと思っています。保育園の再建が一日も早くできることを、願っています。

(折原明美/保育士)

◆不安と、さまざまな気持ちでいっぱい
 震災当日、私はいちご組にいて、子どもたちの午睡も終わり、起こしていると、ケータイが「ブー、ブー」と鳴り始めました。「地震だ!」と思ったところ揺れ始め、だんだん大きくなりました。
 避難訓練の時のように窓を開けましたが、窓も左右へ揺れ、物は落ち、とても恐怖でいっぱいでした。
 子どもたちと布団の上に集まり、起き上がることもできず、頭を低くし、ただただ地震が落ち着くのを待っていました。一度おさまったところで子どもたちを抱き、外へ避難しました。外の外灯も、左右に大きく揺れていました。外に出ると、駐車場も地割れしていて、恐ろしくてたまりませんでした。
 小学校への移動中、まわりを見ると、まわりの景色が変わり果てていました。
 次の日、双葉町から川俣町への移動となり、道もどこが通れるのかわからず、この先どうなるのか、原発はどうなるのか、不安でいっぱいでした。小学校でバスを待っていると、警察の車がたくさん前を通り、ガスマスクをした人がいて、取り残された気持ちでした。
 今の私の気持ちとしては、子どもたち全員、無事に帰すことができてよかったと思います。地震が起こるたびに、ドキドキして不安でいっぱいになります。そして、地元に帰れない淋しさなど、さまざまな気持ちです。

(磯部康子/保育士)

◆いつか家族で故郷に戻り、みんなで誕生会を
 私の誕生日は、3月11日です。
 あの日は、もう少しで勤務も終わり家に帰るのを楽しみにしていました。わが家では、誕生日にはささやかなお祝いをして、後日、日時を決めて外で食事会をするようにしていました。
 息子、娘、姪は、夕方の時間指定で私にプレゼントを送ってくれたらしいのですが、地震で私のところには届きませんでした。きっと、宅配便の車の中にあったのでしょう。
 震災と原子力災害で、家族は離れ離れになってしまいました。昨年の誕生日は何もできず、電話で孫たちと話をするだけでした。
 今年も、家族の誕生日に集まることはできないと思いますが、2か月に一度など、都合をつけて集まれるように私が計画を立てています。
 3月11日は、生涯忘れることのできない日になりました。子どもや孫たちは、震災・原子力災害を思い出すたびに、私の誕生日を思い出すことでしょう。
 私は、いつか家族で故郷に戻り、みんなで誕生会を催したいと願うばかりです。

(吉田教子/保育士)