公益社団法人 全国私立保育園連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

まどか保育園の現在まで【4】東日本大震災~あの日・あの時

東日本大震災・福島第一原発事故後2年6か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【4】
東日本大震災~あの日・あの時

馬場英美●まどか保育園保育士

【保育通信No.701/2012年9月号】

◆3月11日に思うこと
 震災当日の午前中、保育園でお誕生会が開催され、三好寿司さんのマジックショーや、翌日行われるNHK歌ののど自慢予選会に出場予定だった保育士の壮行会を行っていました。園児たちと一緒に、とても楽しい時をすごしていたのを覚えています。
 そしてあの日の午後2時46分、私は保育園の事務室で携帯電話から緊急地震速報が鳴り響いた瞬間に、過去に経験したことのない非常に大きく激しい揺れに見舞われたことを、今でも鮮明に記憶しています。
 園児たちは、午睡後のおやつの準備の時間でしたが、もも組の担任が休暇のため、私は心配で急いでもも組へ向かい、他の保育士と一緒に園児たちを部屋の真ん中に集め、長い揺れがおさまるのを待ちました。そして最初の大きな揺れがおさまった後、他の保育士たちと園児の無事を確認し合い、園庭の真ん中に園児たちを避難させました。
 その間、乳児棟では他の保育士が中心となり、乳児棟前の駐車場へ避難していました。その後の余震もすごく、園庭にも大きな地割れができて、保育園に隣接している寺の本堂からはぎしぎしという音が鳴り響いていました。
 すぐに、園長と副園長の指示で全員駐車場へ避難しました。私も棚が倒れ、物が散乱していた事務室から園児の緊急連絡簿だけを持ち出しました。外で待っている間はとても寒く、余震も続き、園児たちは不安感と恐怖感が入り乱れているのではないかと感じていました。
 余震が続く中、お迎えに来られた保護者に園児を引き渡し、私はお迎えに来られない園児たちと一緒に北小学校まで徒歩で避難しました。
 避難する人々や車の往来も多い中、年長の子どもが小さい子どもと手をつないでしっかり歩き、無事に小学校に到着することができました。小学校には、すでに双葉町の方々が大勢避難しており、避難してすぐに海側では津波により大きな被害が出たことを知りました。そして、校長室にあるテレビから流れる情報で、地震の規模が非常に大きい規模であり、東北沿岸部に大きな被害が出たことを知りました。
 その後、小学校に避難していた園児たちの保護者がお迎えに来てくれましたが、保護者の方は直接子どもたちの顔を見るまでは本当に心配されていたと思います。
 私自身も家族と連絡がとれず、車は動かせず、このまま小学校ですごすしかないと思っていましたが、午後10時前に、何とか連絡のとれた主人が迎えにきてくれ、自宅に帰ることができました。
 自宅に帰り、幼稚園と保育園に行っていた3人の子どもたちの無事を確認できた時は、本当に安心し、涙が溢れる思いでした。

◆保育園からの避難を振り返って
 この大地震を経験して、保育士として園児たちや保育園としてどのような行動をとるべきかを考え、思いついたことは、緊急連絡名簿は持ち出せましたが、電話がつながらず、パソコンか携帯電話での一斉配信メールがあれば、保護者に園児の無事と避難先だけでも通知できて、保護者の不安を軽減できたのではないかということです。
 また、保育園用の非常袋を各クラス分または保育士分備蓄し、避難の際にすぐ持ち出せるように備えておくとよいかと思います(オムツや着替え、タオル、ミルクや哺乳瓶、乾パンやビスケット、水など)。
 毎月の避難訓練を実施していたため、地震発生時と避難の際に、園児たちの中で泣く子どもはいたものの、パニックに陥って逃げ出したり暴れる子どもはいなくて、きちんと保育者の話を聞いて避難することができていたと思います。
 今回の大地震で、園児たちが全員無事に保護者のもとへ帰宅することができて、本当によかったという思いでいっぱいです。

◆福島から避難して思うこと
 「福島第1原子力発電所が水素爆発を起こした」というニュースを聞いて、私たち家族5人は、3月12日の夜、福島から主人の姉が住んでいる埼玉県三郷市へ避難しました。常磐自動車道が交通規制により使用不可になっていたため、国道4号線をひたすら南へ向かい、約12時間かけて翌日の朝、到着することができました。
 長女が4月から小学校入学ということもあり、埼玉県に避難してすぐに小学校入学の手続きや準備等で、避難生活ともども、精神と肉体への負担も非常に大きかったと記憶しています。
 子どもたちは避難生活を強いられ、最初は情緒も不安定で、緊急地震速報が鳴るたびに恐怖にかられ、その都度泣いていました。また、市内のアパートに移ってからも、狭い部屋の中で家族8人が隣人に迷惑をかけないように静かに生活を送らなければなりません。故郷と異なる環境の中、いろいろなことで家族が不安に陥り、なおかつ我慢を強いられる生活でした。
 アパートでの避難生活をしていた私たちがこのように不自由さを感じているくらいでしたから、幼い子どもを抱えておられる方や子どもが多い方にとって、体育館などの避難所や仮設住宅での生活は、さらに気を遣われたのではないでしょうか。
 私は、近所の小学校や幼稚園でお友だちもでき、まわりの方々に助けていただくことにより、埼玉県での避難生活にも慣れてきたところでした。しかし、主人の仕事の都合で福島県いわき市に転居することになりました。大人の都合でまた生活環境が変わってしまうことは、子どもに申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 そして、あの日から避難して約2年が過ぎましたが、子どもたちの将来がどうなるのか、とても不安です。子どもたちが転校先の生活に馴染めなかったら、いじめ等にあわないか、などという不安も感じています。
 また、子どもたちの甲状腺検査の診断結果で、私の3人の子どものうちの1人がA2(小さいしこり、膿疱がある)であることが判明しました。
 福島県では、原発の爆発事故による放射線の影響は関係ない、A2という診断結果は経過観察で、次の検査は2年後であるといっています。しかし、最近のニュースで甲状腺がんの子どもが数名いるということを知り、県はどのような理由で大丈夫というのか、憤りを感じています。そして、私と同様に、憤りを感じている保護者の方が大勢おられるのではないかと思います。
 将来、私たちの子どもが就職する時や結婚をする時、福島県出身者ということで差別を受けることになりはしないかと不安になります。
 子どもたちの将来にとって、私たちが今、そして今後、どうすることがよりよいことなのか、すべきことは何なのか、はっきりした答えや未来が見えないのが現実です。しかし、子どもたちは、日々生きて成長していきます。
 私たち保護者は、どんな環境にあっても子育てをしなければなりません。また、私たちの故郷が福島県であることに変わりありません。
 今後も子どもたちが、多くの不安の中でも、毎日元気に笑顔で生活し、成長できるように、前向きに人生を歩んでいきたいと思っています。