公益社団法人 全国私立保育園連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

まどか保育園の現在まで【3】東日本大震災~あの日・あの時

東日本大震災・福島第一原発事故後2年5か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【3】
東日本大震災~あの日・あの時

神野幸子●まどか保育園保育士

【保育通信No.700/2013年8月号】

 2011年3月11日は、お昼頃まで冬晴れの好天でした。当時私が担任をしていた「さくらんぼ組」の子どもたちは、午睡から次々と目を覚まし、午後2時半頃までにほとんどの子どもが起きていました。そのため、いつもより少し早めにオムツ交換を始め、2人目のお尻拭きを手元に寄せようとした瞬間、後に東日本大震災と呼ばれる巨大地震が発生しました。

 揺れの最中、慌ててオムツを伏せて、泣きながら這って来た子どもを左右の手で抱きかかえ、自分の上体を床で横になっている子どもの上に伏せ、地震がおさまるのを待ちました。別の保育士のところへ集まった子、布団の上でぼんやりしていた子、サークル内で不安そうな子たちの顔を見ましたが、揺れが強く長いため、両手が使えない状況に戸惑ってしまいました。

 余震が2度、3度と続いたところで、幼児組の園舎で満了(卒園)に向けて準備をしていた保育士たちが駆け戻って来てくれました。激しい揺れの最中、副主任がロッカー内のおんぶ紐を取りに行き、1本を受け取って1人をおんぶし、他の保育士たちがベビーカーや避難車に子どもを乗せ出しているあいだに急いでオムツを交換し、ようやく綺麗にしてあげることができました。
 幸い、子どもたちの居た場所への物の落下はありませんでしたが、何度も大きな余震が起こっているため、乳児棟前の駐車場に集まりました。
 フェンスの外に出た途端、地面やアスファルトにいくつもの亀裂が走っていたことに驚き感じました。幼児組の子どもたちと職員も集まっていましたが、保育園の正門に立っている“兵隊さんの門”が硬直し、一定方向に長く伸びて倒れていたこと、園長先生が住職を務める隣接した正福寺の本堂の壁の大部分が落下して中が丸見えの状態でした。そのあり様が目に入り、絶句してしまいました。
 消防の方たちや保護者の方も次々と駆けつけてくださいましたが、その間何度も起こる余震で太い柱の本堂が目の前でミシミシと音を立てて左右に揺れる様や、ビュンビュン唸りをあげる頭上の数本の電線、ベビーカーを押しながら地割れをまたぐように立っていると左右の足が異なって動くのを感じ、その度に恐怖を感じました。
 また、お昼過ぎまで晴れていたのが嘘のような曇り空になり、雪もチラつき、冷え込みが一段と厳しくなってとても寒かったのを覚えています。
 数名の保育士たちが乳児棟に入り、皆の防寒着や午睡用の布団・毛布等を運び出してくれ、寒さをしのぐようにと子どもたちに掛けてあげることができました。

 余震が頻発しているため、この状況では非常に危険だと判断し、保育園の職員や子どもたち、地域の方も一緒に、避難所に指定されている双葉町立北小学校へ移動することになりました。
 幼児組の次に、1人の子どもを背中におぶって6人掛けのベビーカーを押しながら、私も同行しました。至るところで亀裂や倒壊、マンホールの隆起、アスファルトの陥没と、普段ではありえない光景、車やベビーカーではスムーズに通れない箇所も多く、その度に近くを歩く地域の方々が手伝ってくださり、無事に北小学校へ到着できたことにとても感謝しています。
 時間を追うごとに、迎えに来た保護者の方から道路や建物の様子、津波のこと、福島第1原子力発電所の不安等を耳にし、私たちの不安はますます大きくなるものの、副園長はじめ、先生たちと一緒に園児全員を無事に保護者の方に引き渡せたことは何よりも嬉しく思いました。
 私の家族が心配して探しに来てくれ、夜中に北小学校内で会うことができました。しかし、携帯電話や運転免許証等を保育園の更衣室に置いたままであったため、車の持ち出しもすぐにはできず、夜が明けて道路の状況が見えるようになってから大熊町の自宅に帰ることを告げ、この時は家族を見送り、朝まで先生方と避難所である小学校に残りました。
 しかしこの後、家族がバラバラになり、避難することになるなんて夢にも思いませんでした。
 校舎内は夜間の冷え込みも厳しく、皆で体を寄せ合い毛布で寒さをしのいですごしました。壁に寄り掛ってウトウトするものの、頻繁に起こる余震で熟睡できず、炊き出しのおにぎりが回ってきても、食欲も気力も起こりませんでした。

 夜が明け、自宅に帰れることを期待していたところ、役場の方から屋内退避するようにとの連絡があり、1時間もしないうちに福島第1原発から半径10㎞圏内から避難するようにとの命令が出され、何がどのようになっているのか、どのようにすればよいのかと頭の中が真っ白になった記憶しか残っていません。
 その後、すぐに役場の方から川俣方面へ移動するようにと連絡が入り、手元の毛布等をまとめましたが、前日、園児をおんぶしながら避難した私は防寒着を着用しておらず、毛布を1枚だけはおり、避難用のバスを待つために移動しました。この時、北小学校に避難していた方の正確な人数は不明ですが、大勢の方がいたことを覚えています。
 避難用のバスが1台到着しても乗車できる人は限られており、積み残された方が次のバスを待つ間、途方にくれて不安が増すばかりでした。この時、昇降口のガラス戸越しに、北小学校の崖下にある道路上に機動隊の青いバスが数台入って来たのが見えました。そして、バスから出て来た人は白い放射線防護服姿で、人々を誘導しているのを見て、今は普通の状況ではないのだということだけが理解できました。
 後になれば、この人たちは過酷な中で大変危険な任務に就いていたのだと理解できましたが、あの時の私には、同じ地域の中に放射線防護服の人と、一方では私たちのような無防備な人のほうが圧倒的に大勢いた状況で、この差は何なのだろうかという思いと、底知れぬ不安感でいっぱいでした。そして、校舎のドアの外へ出ること自体も危険なのかと不安に思えてなりませんでした。

 そんな中、バスを待つより自分の車で避難する人も出てきたので、一人の保育士が保育園まで乗せてもらい、やがて戻ってきたその保育士の車に数名で乗車し、“決死”の思いで保育園へ行きました。私は、気にしていた携帯電話の入った鞄を取ると車へ向かいましたが、その車の持ち主は来ておらず、この時の持ち出しは断念しました。
 私たちは乗り出せた数台の車に分乗し、羽鳥地区から浪江町、大堀地区へ向かいました。亀裂・陥没・隆起を避けながら道路を進むと、すぐ渋滞にはまってしまいました。しかしその際、付近に住む住人の方が道路脇の枯草や土を道路の陥没したところに運んでいました。その方は、その先は道路の陥没がひどくて通行できないというので、車をUターンし、他の道を通ることになりましたが、皆が逃げることに必死でいる中を黙々と他人のために行動されている姿には頭が下がる思いでした。後に、この方も無事に避難されたのか気になって仕方がありませんでした。
 JR双葉駅周辺から国道288号線に向かうとすぐに行き止まりになり、福島第1原発でベント解放の時間と重なり(報道で聞いた)、気が気ではありませんでした。保育園で役員をしてくださっていた方に道案内をしていただき、ようやく国道288号線に入ることができました。
 大熊町から田村市都路町を移動する際、茨城ナンバーのバスが数台連なって来たのとすれ違いましたが、どこへ向かうバスなのか、北小学校で待つ人たちが少しでも早く乗車できればと思いました。私は、何とか無事に川俣南小学校まで辿りついた時、緊張と疲労感から偏頭痛と吐き気を覚えてしまいました。

 震災当日から2年が経過し、避難先で冬晴れの空をふと見上げた時、青空の中に白い雲を目にし、震災前の福島第1原発のきれいな建屋が思い浮かびました。でも、すぐにTVの画面に映っていた壊れた建屋が重なり、思わず自然と涙がこぼれそうになる時があります。
 当時、“赤ちゃん”だった子どもたちも、今では大きく成長したのかと思いをめぐらし、子どもたちの健全な成長を願わずにはいられません。また、未だに起こる余震を感じる度に、「福島第1原子力発電所事故」の1日でも早い終息と安全を願っています。