公益社団法人 全国私立保育園連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

Reportage No.7 想定外を想定する…その時守るべきものは何か②

全私保連調査部*岩手県山田町ヒアリング報告
想定外を想定する…その時守るべきものは何か

【保育通信No.692/2012年12月号】

■その日から保育園は避難所になった豊間根保育園の記録

 豊間根保育園は岩手県下閉伊郡山田町にあり、海岸から約10㎞離れた場所に建っています。保育園の隣には山田町役場の支所や中学校などがあります。
 3・11の震災発生と同時に停電となりました。携帯電話も通じなくなり、各種情報から途絶された状況となりました。15時20分過ぎに沿岸部を大津波が襲いましたが、そのことも同園では知ることがありませんでした。その後、沿岸部へ通じる道路が通行止めになり、保育園隣に位置する町役場支所へ行き場を失った車が次々と入ってきました。町役場本体が津波の影響を受けたため、この支所が災害対策本部として機能していくこととなりました。
 時間の経過とともに支所に避難してくる人々が多くなり、支所だけで対応することが困難となったため、園長の判断により子どものいる家庭の避難を優先的に受け入れることとしました。この時、地震の発生から3時間が経過していました。
 夜になり、津波の後に火災が発生すると、避難してくる人の数はどんどん増えていきました。また、避難者からもたらされる情報により、沿岸部の惨状が段々とわかってきました。この時から豊間根保育園は被災を免れた数少ない保育園としての役割と、避難所としての役割の両方を担っていくこととなります。
 11日夜から園内は避難してきた人々であふれていました。「保育園というよりは避難所だった」と当時を園長は振り返っています。停電は依然として続いていましたが、ガスと水道が使用できていたため、貴重な避難所として機能していました。

 
このような状況では避難車は使えない!!

 しかしその一方で、街中の保育園はほぼすべてが被災していたため、豊間根保育園の早い再開が求められていました。子どもを預け行方不明の家族を探しに行きたい方や、流された家の様子を見に行きたい方など、一時保育のニーズは増える一方でした。
 本来は山田町から避難所の運営のために人が派遣されるはずでしたが、民間立の保育園ということで、その運営はすべて施設側に任されていました。食料等の物資が乏しく、園にあったお米や乾麺などを分け合いながら当座をしのぐ状態でした。その後、避難所に指定され、震災発生3日目から物資が次々に運び込まれるようになりました。
 沿岸部から離れているという地理的な要因もあり、豊間根保育園に通う園児たちの家は比較的無事だったため、在園児のご家庭自らが登園の自粛を申し出てくれました。そのため一時保育のニーズに応えることができ、一時保育保育料は役場と相談し、無償で行うこととなりました。

 ピーク時には70名を超す方々が避難してきたため、施設の使い方など保育園と避難者とで幾度となく話し合いがもたれました。避難者の中には家を流された職員がおり、その職員が中心となって避難所の運営を行いました。このことにより、他の職員の負担は大きく減ることとなります。また、法人内の他施設で働く看護師が避難者の心身のケアを担当することとなりました。
 震災後、職員を解雇せざるを得ない施設もありましが、豊間根保育園を運営する社会福祉法人三心会では、職員全員の継続雇用を理事長以下、施設長の判断で決めました。家や車が流され避難生活を余儀なくされた職員もいましたが、働く場所と定期的な収入があることで、前向きに日々を送ることができました。

 施設における地震の被害は、天井のパネルが剥がれる程度の軽微なものでしたが、たまたま休暇を取得していた職員が津波にさらわれてしまいました。
 安否確認のため園長は方々を探しましたが見つけることができず、震災後3日目に自宅周辺を捜索していた消防団の手により遺体が発見されました。園長とは遺体安置所での対面となりました。


たくさんの励ましをいただいた保育士派遣事業


 送電が復旧するまでの6日間は、日の出とともに起き、日没とともに寝る生活でした。ローソクは余震で転倒することもあったため使用できず、僅かな懐中電灯とパソコンのバックライトで足元を照らす必要がありました。暗く寒さも厳しかったため、夜の長さが心身にこたえる日々でした。園にある布団に包まり寒さをしのぎましたが、学校のカーテンに身を包む避難者もいました。
 もともと子どもが1日の生活をすごす機能が園に備わっていたため、避難所として必要なものは、ほぼすべてそろっていました。4月以降、札幌や東京からボランティアの保育士が常時、支援に滞在してくれることとなりました。このことが職員や避難者たちの大きな心の支えとなったのです。
 園の職員たちは、子どもたちに明るく接してきたつもりでしたが、支援で来てくれた外部の保育士さんたちとのかかわりの中で、子どもたちが元気になっていくのが感じられました。子どもたちが職員に「先生、大丈夫?」と声をかけてくることもあり、子どもたちなりに職員に気を使っていたように思います。今後の生活のことや家族のことなど、心配することがたくさんあり、心身ともに疲れていたことに子どもたちが気がづいていたのでしょう。その反面、支援で来てくれる外部の保育士さんたちは、被災している子どもの背景を知らない分、元気に子どもに接することができたのではないでしょうか。被災地の保育士よりも、外部の保育士は明らかに心が健康だったと感じます。そのところに子どもたちも惹かれたのでしょう。
 支援の保育士さんは定期的に交代で豊間根入りしてくれていましたが、次はどんな人が来てくれるのだろうと、子どもたちは楽しみにしていました。支援の保育士の派遣があったからこそ、豊間根の保育士たちは仮設住宅の引越しや、日々の片づけなどに取り組むことができ、非常に有効な支援であったと思われます。



地域の郷土芸能『虎舞』を練習中の園児達


 仮設住宅の建築が進み、被災した方々が入居することにより、6月末に豊間根保育園は避難所としての役目を閉じました。3・11以降、『疲れたと』感じる間がないほど職員一同、全力で走り続けました。そんな中、物資を送ってくださる方々や、保育士の派遣など、助けてくれる人がいるということが心の支えとなりました。自分たちのことを思い、心配してくれる人の存在が何よりもありがたく感じます。
 豊間根は高台にあるため震災以降、引っ越してくる方々が増えました。24年度からは仮設住宅を回る出前保育事業を始めました。これからも復興の足がかりとして、地域の子育てに貢献したいと考えています。

 (丸山 純/全私保連調査部)

■まとめ

  今回大きな被害を受けた被災地である岩手県山田町の状況を伺うことで、我々調査部が『東日本大震災アンケート[関東エリア版]』から導き出した4つの課題提起は概ね的を射ていたように思います。しかしながら、わずかな環境の違いから一方で被災者(被災園)となり、また一方で避難所の運営に至る経緯を伺うと、子どもたちの命を守る使命を果たすには、どんな状況におかれても適切な判断を下せる視野の広さが私たち保育園に求められ、また必須の能力なのだと感じました。そして、『想定外を少なくする努力』と『想定外を想定する訓練』を日々行う必要性を実感しました。

 今回の被災地現地調査にご協力いただいた社会福祉法人三心会、ならびに同法人の運営する山田第一保育所、豊間根保育園、織笠保育園の皆様に心より感謝し、被災地の一刻も早い復興を祈念しこの報告のまとめと致します。
*掲載の写真は、山田町第一保育所からいただきました。